2008年10月19日日曜日

レバラン休暇(前半・ボゴールにて)











9月27日の午前6時15分にマカッサルのハサヌディン空港からジャカルタ経由でボゴールへ飛び立つことができました。何といっても,職場の友人のつてで,飛行機会社に勤める友人を紹介してもらったので,レバランという混雑な時期のチケットをギリギリになってとることができたのでした。チケットはとても高かったですが,このことを通じて新しい友人ができたことや,私にとってはボゴールへ二本松訓練所時代の恩師であるインドネシア語の語学講師の実家を訪れることができたことは,お金に代え難い貴重な経験でした。写真は実家の母屋と別荘のようなはなれです。私はこのはなれ(洗濯物がある方)を自由に使わせてもらったのでした。お料理は野菜・・・野菜・・・野菜・・・と野菜尽くしとまではいいませんが,たくさん野菜があって,本当にうれしかったです。それから,先生宅の近くにスパがあって,別にまだ切らなくてもいいのに散髪して,さらに髪が短くなりました。1日おいてまた行ったので,全身ウコンクリームマッサージ(お腹やおっぱいマッサージまである)とスティームをしました。女性専用のお店で,とても居心地がよかったです。でも,日本のつぼやリンパのマッサージのように疲れがとれるところまではいかないのですが・・・。
 4日間滞在させてもらったのですが,ゆっくりリラックスして過ごしたのはもちろんですが,語学講師の先生は,なぜ私がボゴールへ来たのか見抜かれていました。8月に赴任してから,活動が全く進まない状況について,最後の夜にたくさん話しをさせてもらいました。巡回型の隊員なのに,視察のための巡回が0回であること。(他の種類の巡回は何度かあります。)外の実際の現場を知ることができない状況を話しましたが,語学講師の先生は私が内である教育局(DINAS)について知っていないことも見抜かれていました。このボゴールでの夜のおかげで,私が10月になっても巡回できない時に,職員一人ひとりに
インタビュー形式でアンケートをとっていくきっかけとなったのでした。
「私は学校外教育課の一人ひとりの仕事を知らないから具体的にどういう仕事をしているのか教えてほしい。」
 今までは,挨拶と簡単な雑談で終わっていた会話が,アンケートに書いてくれる内容をもとに一人ひとりと仕事の話ができるようになりました。学校外教育課の職員は33名いますし,郡担当11名,PKBM等の担当者や各識字教室のTutorを含めると,このアンケートはずっと続けていく必要があると思います。1日に1人か2人のペースです。もちろん私のことを「インドネシア語も流暢でないのに,何しに来たん」と思っている職員がいることもわかってしまったり・・・。アンケートの回答に大差はないかもしれませんが,でも一人ひとりの同僚の特長をつかみ,また一つひとつの壁を越えてこそ,相互理解につながると思っています。ようやく私の大好きな言葉「少しずつ・・・,一歩ずつ・・・」という言葉が出せるようになりました。巡回に行かないとお話にならない状況は変わらないのですが・・・。

レバラン準備のために・・・


私の勤める教育局
や県のお役所では,レバラン休暇が9月27日の土曜日から9連休で始まります(本当は過去形なのですが)。それを受けて,いわゆる正公務員の人は,レバラン準備のために使いなさいとお菓子づくりのための材料を県から支給されています。わざわざ県庁へ取りに行くのですが,写真にある通り,小麦粉や調味料等でした。ものすごく重かったです。最近務めた人や臨時の勤務の人にはありません。インドネシアのご家庭を訪ねると,ビンに入った手作りのお菓子を出されることが多いです。手作りのものや自然な風味をインドネシアの人たちは大切にしています。
 そして休暇前日の9月26日金曜日には,教育長から職員全員にレバラン用にと一人10万Rp(日本円でいうと千円位からもしれませんが,価値としては一万円くらい。)ずついただきました。教育長のポケットマネーではなくて,レバラン用にプールしているお金なのかもしれませんが・・・。私の分も用意されていて,名簿とサイン記入欄もありました。初めてインドネシアからの貴重なお金をいただきました。

文房具が届けられました!




 9月25日(木),私の勤務するジェネポント県教育局にマカッサル州政府から大きな段ボール箱が85個届きました。中身は識字教室等で学ぶメンバーに無料で配られる文房具でした(ノート5冊,鉛筆削り2つ,消しゴム2つ,鉛筆2本,ボールペン2本,定規2つ)。2000人分です。本当は教室が開始される7月に配布されなければならないとのことでした。半年ごとのタームなので。約2か月遅れです。私のブログも1か月遅れです。ジェネポント県にはすでに200グループ(1グループは10名)で識字教育活動等が動き出しているのですが,まだ私は乗り物の手段の確保が難しく,実際の現場に行くことができていません。(インドネシアの隊員はバイクへ乗ることを禁止されています。自由に移動できる車の確保が難しいのです。)巡回型の隊員なのに巡回する手段がないのが今一番つらいところです。

2008年9月19日金曜日

都市での研修


今,断食月で,任地ジェネポントでの教育活動は学校も学校外の識字教育も停止中なんです。残念!
そこで,職場の人が都市マカッサルで受けている研修を2日間だけですが,私も受けさせてもらうことにしました。スラウェシ島全域から,教育省や保健省のスタッフ,学校の先生が集まり,就学前のこどもたちや,村で学校へ行っていないこどもたちやおとなになってから学ぼうとしている人たちに教えることを目的としているようです。いかに教材にお金をかけず,且つ手作業を通して頭を使っていくかということを念頭において実施されていて,研修もグループでの創作活動が中心です。
初日は,なかなかとけこめず,言葉の壁で誤解も生じたり,研修レベルの高さにに圧倒されていましたが,2日目から少しずつなじんできました。
よく考えたら,2週間の研修をホテルに泊まって受けること自体すごいなあと思いますし,先生方の先生は,シンガポールで4か月研修を受けてきた人たちで,教えるパーツがいくらでもあるようでした。夜も
研修室に集まって,地域ごとのグループで研修内容の検討を行っていたり,受講者はとても熱心です。
所属の地域へ帰ったときに,今度は自分が指導者として,職員研修をするので,ボーっとしてはいられないのかもしれません。みな資料以外の分厚い大きなノートが研修メモでいっぱいになっていました。
幼児教育に携わる人たち,学校外教育活動に携わる人たち,そして村の中に入って啓発活動を行う人たちにとっては,有意義な研修だと思います。たとえば,私はインドネシア語がまだまだなので,インドネシア語を話すことができない地域の村の人と同じ感覚になるかと思うのですが,職員が早口のインドネシア語で説明してくれるよりも,解説書を読むよりも,わかりやすいです。学校で教科書を使って行う授業とは脳の鍛える場所が違うかもしれませんが,説明を聞いてたら右から左へ流れ,文字を読もうとすればどうしても眠たくなる人が多い村では,活動を通して,この活動は何の意味があるのかを考える方が,村の人々にとっては有益な勉強のように感じます。
ただ,日本でも同じだと思うのですが,研修を受けている時はやる気のあるメンバーばかりでどんどん活動が進みますが,これを知らない人に教えるときは,何倍ものエネルギーが必要です。だからこそ,
地域に帰ってからの職員研修や村人との信頼関係づくりが成功の鍵を握っているのかもしれません。

先月のことですが・・・


今日は研修で,平日ながら都市へあがることができました。puasa(断食)も着実に実行中。日中食べないことには慣れてしまいました。しかし,夜6時5分頃に断食が明けて,いつもより多く食べてしまいます。そして朝3時に起きて夜食(sahur)を食べるのがつらいです。どうしても睡眠が不規則になってしまいがち!



そうそう先月のことなのですが,私は教育省の学校外教育課に所属しているので,本来は学校を訪問しないはずなのですが,職場の友人の関係で,都市マカッサルの小学校へ行った時のことを書いておきます。赴任3日目で,なぜか平日木曜日の午後からマカッサルへ。そして8月8日金曜日に小学校見学!金曜日は体育の日なので,朝から全校生徒がリズム体操をしていました。先生は全員体操服で,生徒はちゃんと制服を着ていました(不思議)。2年生の地方言語マカッサル語と英語の授業を拝見しました。マカッサル語は字も異なるので,びっくり。これは読めないなあ・・・。英語は日本の小学生が習うのとそんなに変わらないと思いますが,動物の名前を復習していました。日本の小学校と同じように,教室内に先生の机がありました。AC(エアコン)もありました。先生はしょっ中,ノートを集めてチェックして,その間に子どもたちは次の課題に取り組んでいました。ここまでは別にいいのですが,このあと先生は私にSOTO AYAM(鶏肉だんご入りの麵)を食べるかと聞いてきました。私が昼ごはんのことかと思ってうなずくと,ほかの先生にすぐ連絡を入れて,なんとすぐに教室に運ばれてきました。子どもたちがまじめに課題に取り組む姿を横目に見ながら,私とその先生はバクバク食事をしているのでした。私は子どもたちに外国から突如やって来たお客さんは,くいしんぼうと思われるのではないかとひやひやしましたが,ごく日常の出来事のようです。そして,英語の専門の先生にバトンタッチして,私たちは職員室に行きました。そこでもまた食べながら飲みながらすごく楽しい時間を過ごしました。やっぱり学校はいいなあ。職場の人間関係もいい感じでした。日本の学校は一人ひとりの仕事のノルマが本当に多すぎ!職員同士の会話がだんだんなくなっているなあと残念に思っています。インドネシアのおおらかさを吸収していきたいです!
写真は独立記念日の前の日に実施される行進の練習風景です。

2008年9月1日月曜日

任地での生活(その3「公務員の制服」)

今日は9月1日月曜日で出勤のはずなのです。しかし,puasa(断食)初日なので,正式なインフォメーションは出ていませんが,ジェネポント教育省の場合,行っても行かなくてもいい,行かない方がよりいいと真面目な職員の方に言われ,断食休みを満喫!?しております。(実際は仕事に行っている人の方が圧倒的に多い。)朝,3時半にごはんを食べましたが,もうお腹すいてきました。いつまでみんなと一緒にできるでしょうか。イスラム教徒にはなれませんが,こちらで仏教徒として通しても,Mau
ikut?(断食参加したいですか,一緒に断食やってみる!?)と言われると,ついつい参加すると答えてしまっていました。暗い時にだけ食べたり,飲んだりするから不健康なのか,やはり食が減るから身体が浄化されていくのか,実体験して理解できる貴重な機会だと思っています。周りの人がイスラム教
徒の人ばかりですから,断食している方が心理的には楽です。
女性特有の月1回の数日間はお祈りとpuasaは免除されるので,当然ながら私は女性としての挑戦をします。


 さてさて,本題の公務員の制服の件ですが,インドネシアでは,公務員(役所,学校の先生)は,制服を着ています。月曜日だけ緑色の制服で,地域の公務員が集まって朝礼が行われます。写真は朝礼で職員が国旗に向かって敬礼しているところです。火曜日から木曜日は,黄色の制服で,写真は私の制服です。布は自分で買って,自分の体にあった制服を縫ってもらうので,みんな若干,布の色や服の形に人それぞれ特徴があります。 金曜日は体育の日のようなイメージで,服装は自由です。ジャージ姿の人も多いですが,おしゃれをしっかりしてくる人もいます。


2008年8月31日日曜日

任地での生活(その2「私のもう一つの名前」)

8月5日に現在の職場であるジェネポント教育省のkepala(長)が,私をひと目見て,ジェネポントでの名前をつけてくれました。DAENG CAYA(デーン チャヤ)というのが私のもう一つの名前です。
意味は「明るい」とか「光」とか,まあ明るいイメージの名前です。ジェネポントでは,最初にCAYAを名乗ったあと,nama Jepang(日本の名前)を名乗るようにしています。名前というのは,恐ろしいなあと思うのですが,この名前を名乗っている以上,暗くできないのだなあと・・・。ありがたいことに,疲れたなあと思う時でも,真剣に物事を考えている時でも,停電の闇の中でも,Caya!と呼ばれると笑顔で返答している自分の姿があるようです。でも,やはりnaoko(naosan)と呼ばれるといつも通りの自分のようでほっとします。さてさて,明日(9月1日)からインドネシアでは,断食です。日本の社会科の教科書では,イスラム教徒はラマダン(断食月)があり,日がのぼっている間は,飲んだり食べたりすることは一切できない。日が沈んでからいつもよりごちそうを食べるとあります。今,インドネシアの人に聞いてみると,一般的には朝3時から4時までに朝ごはんを食べる。5時はもう食べてはいけない。午後6時に晩御飯を食べる。9月1日からpuasa(断食)初挑戦です。どういう感覚で過ごすのか楽しみ。

2008年8月24日日曜日

独立記念日(8月17日)


独立記念日は必ず任地へいるように!私は教育省へ勤務していますが,まだ仕事らしい仕事があるわけではありません。ですが,勤務時間中に kepala(長)や奥様にお呼びがかかることがあります。赴任2週目はpesta(会)へ同行することが多かったです。会というのは,地域の結婚式(お昼に3つの結婚式をはしごしたりしました)や,役職のある人の家族の誕生会,何かよくわかりませんがお楽しみ会のようなものまであります。家にステージを臨時に隣接させて,プロのような人を呼んできて盛大に会を盛り上げる家々を回ってきました。なんとなくkepalaの人間関係が見えたような気がしました。独立記念日はkepalaに正式な招待状が7通届いていました。「疲れる」といいながら,行かなければという責任感もあって参加されているようでした。私もメインの式典には一緒に参加させてもらいました。VIPのような席で,日本ではこのような席に座ることは一生ないと思います。
独立記念日の前にはTVのCMで,日本がインドネシアを占領していたシーンが何回も流れていたので,
私としてはこの席には違和感がありましたが・・・。
独立記念式典はインドネシア国民にとってとても大切な行事であると実感しました。日本は広島や長崎の平和祈念式典はありますが,国民全体の独立記念日はありません。日本人は独立の式典を重要と思ってないのですねと奥様にいわれ,国家についてしみじみと考えることとなりました。


任地での生活(その1「水」)


ようやく任地ジェネポントでの住居も決まりました。自己紹介のところに住所を書いていますので,ぜひインドネシアへお手紙いただければと思います。家はジェネポントの教育省の長の家を間借りしています。ここではお風呂はないので,毎日水浴びしていますが,写真にあるように水をためています。いい時で黄色,もっとすごい時は緑色の水なんです。今はすっかり慣れてしまいました。洗濯物は今のところ黄色く染まっていないので,ホッとしています。

2008年8月9日土曜日

活動開始日(8月6日)に!


Dinas pundidikan へ。すぐに近くのSMA(公立の高校)の授業見学へ。生徒の皆さんに紹介されました。授業の終わりに,日本の高校生の様子を生徒たちに教えてほしいといわれ,いきなりだったので,冷や汗!つたないインドネシア語で説明しました。ちょうど8月6日でしたので,広島の原爆についても話をさせてもらいました。1年後,広島原爆展をインドネシアで開催したいという願望があります。

2008年8月3日日曜日

39(サンキュー)です!


 8月2日土曜日,なんとラッキーなことに先輩隊員よりプリンターを譲っていただくことができました!多くの先輩隊員の皆様にお世話になり,本当に有難い限りです。今日は休日でしたが,結局そのほかは特に何をするわけでもなく終わってしまいました。晩ごはんの時,私と一緒に食事をしてくれた赴任待機中の一隊員に何の気なし「今日,39歳の誕生日なんよ」というと,H隊員は私の両手を握って「直ちゃん,2年間一緒にがんばろうね。2年後は・・・40(才)・・・だけど・・・がんばろうね!」その通り!(笑)今日はずっとメールだけで,「おめでとう」と言ってもらっていました。最後にあたたかい人のぬくもりを感じることができました!とても心あたたまるひと時でした。 


 実は次の日に続きがあり,同期隊員(ジェネポント,ゴア,タカラール,マロスより)とマカッサルの先輩隊員にお誕生日を祝っていただきました。最初何かなと思うほど,気付かれないように用意してくださったので,びっくり!!39才と2日目がとても感動でした!ポストカードと今日のバナナケーキの味はずっと忘れることができないと思います。もう40歳目前にして,お祝いしてもらえるなんて!本当にありがとう!!みんな任地でも支えあっていこうね!!!


マカッサルの夕日

マカッサルは夕日の美しさでとても有名な所です。
ぜひ,皆様にみてほしいと思います。

2008年8月1日金曜日

昨日は研修でした!

いよいよ8月が始まりました!7月30日にスラウェシ島へ到着後、7月31日の昨日は州政府訪問、日本総領事館マカッサル支部訪問そして午後はJICA事務所にて各専門家の皆様が30分ずつスラウェシ島で現在行われているプロジェクトをお話してくださいました。これから活動を始めていくにあたり、何か困ったことがあれば相談できる方々を早速紹介していただきました。このようなことは、スラウェシ島ではこれまでなかったそうです。とてもありがたいことでした。夜は夕日の見えるレストランへ連れていっていただきました。

2008年7月30日水曜日

語学学校Alam Bahasaにて


6月27日~7月22日まで,ジョグジャカルタで約3週間お世話になった語学学校Alam Bahasaの写真です。

今日からスラウェシ島へ

6月23日にインドネシアへ渡航後,約1か月の研修,語学訓練,フィールド・トリップを終え,今日7月30日任地のスラウェシ島へ行きます。日本との時差は1時間に縮まります。ネット環境が整っていない地域への赴任のため,どれだけ更新できるかわかりませんが,皆様よろしくお願いいたします。